Okinawa & U.S.A.


「沖縄でアメリカのパイを焼く」

by 駒沢敏器(作家)


 いまから数年まえ、沖縄産のアップルパイを初めて食べた。いくつもの米軍基地が並ぶ国道58号線沿いにある老舗のベーカリー、「ジミー」のものだ。それはしっとりとしていて分厚く、アメリカの名残をはっきりと感じさせた。そのパイにつられるようにして、僕はその後コザにある店のサクサクとしたアップルのパイや、玉城(現・南城市)に残る往年のブルーベリー・パイも食べてみた。つくりかたも味の方向性も違うので比較はできないが、僕はそのいずれにも衝撃を受けた。これはまさしくアメリカのパイではないか、日本とは何の接点も持っていない古いオリジナルのパイが、この小さな島に少なくとも三つもあるではないかという感銘が、洗練とは違うやさしさを持った味と共に、自分のなかを走り抜けた。
 たかがパイだと思う人も、あるいはいるかもしれない。しかしあたりまえのように売られているそのパイのなかには、いかようにしても埋められないほどの歴史上の乖離が、大きな断層として存在していた。日本ではとっくに消え去ってしまったか、あるいはつくることさえ試みられなかったかもしれない味が、沖縄では平然と定番化していた。
 日本で生まれ育った僕のなかには、その味の記憶は探しようがなく、あえて原点を求めるなら、それは大人になってからアメリカの各地方で目にしてきた、パイの体験のなかにしかなかった。テーブルクロスの敷いてあるようなレストランのデザートではなく、ごく簡単に食事を済ませる店のガラスのケースに並んでいるような、もしくは大きなスーパーマーケットに幾つも箱入りで積み上げられているような、そういったパイの味だ。
 それを沖縄の地で初めて体感したとき、自分の地図上での日本本土は消えそうなほどにはるか遠くへ離れ、太平洋を越えたアメリカと沖縄が、何の無理もなく直に結ばれた。
一九七二年まで沖縄が事実上アメリカの統治下にあったことは、もちろん歴史的な知識としては承知していたが、日本人であることがほとんど意味を成さないような『アメリカの沖縄』を体で実感したのは、おそらくそのときが初めてだった。
 KSBKという幻のラジオステーションが存在していたのを知ったときも、心が激しく動かされた。何も知らないままにインターネットの波間を泳ぎながら、渡口眞常さんのサイトという岸辺へ偶然に漂着しなかったら、この本は存在していなかったと自分でも言い切ることが出来る。そのラジオ局の沖縄人スタッフとアメリカ人スタッフが、最初はいがみ合いながらもやがて手を取り合い、その後協同してアメリカの軍部に闘いを挑むようなことになるとは、もはや物語として出来すぎであることを超えて、沖縄のある一時期をそのまま象徴する、ひとつのファンタジーの域に達していると言っていいではないか。凡庸な表現だが、まさに事実は小説よりも奇なりだ。
 沖縄とアメリカの間にかつては密接にあったはずの関わりに対して、自分の羅針盤がわずかながらも反応して動くようになったのには、その下地となる言葉をふと洩らしてくれた人物の存在もあった。沖縄の伝説的なバンド「ザ・ワルツ」のリーダーであり、ギターの名手として知られる普久原朝教(ローリー)だ。酒を酌み交わしながらの夜、低く呟くような声で、「おれにとっての本当の沖縄ってさ、ハーフの子たちにあると思うんだよね」と彼は言った。
コザに生まれ育った彼は復帰前後の時代を少年として過ごしており、冷ややかな視線を受けるハーフの子供や同級生が、気になってしかたがなかったのだという。
 「コザの中心街は白人の街だったけれど、もう少し行ったところに黒人の街があって、そこで生まれた子はもっと冷たい目に遭っていたと思う。でも何が凄いって、彼らはまったく抵抗しなかった。なかにはグレる時期を過ごしたのもいたけれど、大人になると彼らは凄くやさしかった。その心の強さや愛の深さには全然かなわなくて、真似しようにもしようがなかった。こんな小さな島から、アメリカと日本の囚人のような場所から、それでも何か発信しなければいけないことがあるとしたら、それは彼らのハートのなかにあると思う」
 このときの彼の言葉がいつまでも自分の耳に残り続け、記憶の片隅で不完全燃焼を起こしていたところに、僕はある日パイを食べてKSBKの存在に触れた。そのときに小さな火が点き、どうにも落ち着かなくなってきた。単に発火しただけなのではなく、自分が日本人であることの居心地が妙に悪くなり始め、特に沖縄を訪れているときの自分の居場所を、どこにどう置いていいのかわからなくなった。これは何もセンチメンタルな自虐史観に支えられてのものではなく、アメリカ人との間に生まれた同級生を見つめていたときのローリーの視線と、少しだけ近いものだと自分では思う。


 ちなみに、この文章を読まれている方のなかには、「沖縄人」「日本人」という僕の書き分けに当惑や違和感、あるいはいささかの抵抗を感じられる人もいるかもしれない。沖縄の人も、私たちと同じ日本人ではないのかと。
 このような書き分けをしたのにはまず、戦後からの約30年間を、日本と沖縄とではまったく異なった過ごし方をしたのだという、絶対的な歴史的背景がある。一九七二年まで、沖縄の人たちは断じて日本人ではなかった。
 もうひとつには、「大和」「大和人」という言葉が今でも普通に沖縄に存在しているように、当の沖縄の人たちが日本と沖縄をどこかで分けて捉えている実感にも、書き分けをした要因がある。これは彼らが日本を逆説的に差別したり排他したりしているからなのではなく、地理的にも風土的にもそして精神的にも、日本を遠く客観視する視線を習慣として自然に身につけているところに起因する。この「沖縄人」「日本人」の言い分けは沖縄の地において思いのほか有用で、こちらから沖縄へ赴いてゆく際のわきまえの姿勢として、むしろ好意的に受け止められることが多いと僕は体験的に感じている。
 しかし日本やアメリカに対しては取ることのできた距離や関係の結び方を、同胞であるはずのハーフに対しては、沖縄の人は上手く実現出来なかった。沖縄の血が半分流れているという事態をすんなりと呑みこめず、残りの半分がアメリカなのだと思うと、普段は抑えているいいようのない反感が彼らのなかに噴き出し、その矛先は必要以上にハーフの子供たちに向けられてしまった。
 今でこそハーフは、バイリンガルのDJの人気などに伴って一定の市民権を得ているが、ほんの十数年まえまでは冷たい仕打ちを受けることが多かった。白人との間に生まれた子供は「アメリカー」と呼ばれ、黒人とのハーフの場合は「くるんぼー」と蔑まれた。本来ハーフは、アメリカと沖縄の架け橋であると受け止められていいはずなのに、長い間に培われてきたアメリカへの複雑な思いが、彼らのような弱者にぶつけられることになった。その偏見に必死に耐え、まさに架け橋となるべく大きな自覚で、彼らは自分たちを支えていた。
 沖縄とアメリカの間に生まれた文化や歴史を主題とするのであれば、まさにその体現者である人間のハーフからも話を聞いてみてはどうかと、僕はあるとき取材期間中に提案を受けた。そう進言してくれたのは、那覇の高校で永らく教鞭を執っていた人物で、沖縄人の彼はそれこそ日本人のあなたも知っておくべきだという思いで、すべてを包み隠さずに語ってくれる友人がいると、ハーフとして生きてきた男性を紹介してくれた。


 その男性は比嘉稔さん(57歳・2008年2月当時)という。現在はパートナーの女性と共に、普天間のすずらん通りにある飲食店を経営している。かつては酔った米兵たちが闊歩していたといわれる通りも今では廃れ、わずか数店が営業をしているにすぎない。それでも彼がこの場所にこだわるのは、ここが自分の生まれた故郷であり、青春をすごしてきた現場だからだという。物心がついたときからやくざ稼業の足を完全に洗うときまで、彼はこのすずらん通りで数限りなく喧嘩を繰り返してきた。
 アメリカの匂いを濃厚に残す彼の店は、かつては「Aサイン・バー」だった飲食店の居ぬきだ。AApprovedの頭文字を取ったもので、米軍によって一九五三年に施行された制度だった。米軍の軍人および軍属を相手にする飲食業者は、衛生上の許可を米軍の係官から得なければならず、認可された店には「Aサイン」が大きく掲げられた。コザを中心に普天間や那覇を含め、その数は最大時で約三〇〇〇軒を超えていたという。
 そのAサイン・バーの雰囲気を漂わす比嘉さんの店には、地元の中高年層の客たちが夜な夜な集まってくる。役人から学校の教師、そして自営業の人たちまで、職種は多岐にわたっている。見かけがアメリカ人で、暴れ者として鳴らしたはずの彼を相手に、客たちは静かに酒を飲みながら心情を吐露する。そのさまはいかにも、「温めてもらいに来ている」といった風だ。米軍からAサイン制度が施行される二年まえ、一九五一年に比嘉稔さんは生まれた。


  比嘉稔の場合

 「ぼくの父親は、太平洋戦争の戦後処理と沖縄の基地増強のために赴任した、陸軍の軍人だったと聞いています。しかし朝鮮戦争が本格化して戦地へ出兵することになり、産みの母と赤ん坊だったぼくを置いて、半島へ飛んでいきました。
 外人の子供を連れた女手ひとつではとてもやって行けないということで、産みの母は飲み屋で働き始めました。それくらいしか働き口がなかったんです。しかし無理がたたって肺炎になってしまい、ぼくは産みの親の姉のところへ養子に出されることになりました。そんなもので、僕はいまでも育ての母のことをおふくろと呼んで、産みの母のことをおばさんと呼んでいるんです。
 おふくろには乳飲み子がいたのですが、太平洋戦争の末期に南部を逃げ惑っていて、そのときに子供を失ってしまいました。飢えのなかで彼女も子供の産めない体になり、その後フィリピン人の軍属エンジニアと知り合って、ふたりで生活していたのです。ぼくがこの家にもらわれていくことになったのには、祖母の進言がありました。『妹には妹の人生があるし、子供を産めなくなったおまえ(姉)にはいずれ男の子が必要になる』というわけですね。
 ところが三歳のときに、本当の父親が半島から戻って来たんです。『自分のハーニーはどこにいる?』と、必死で探しまわったそうです。しかし祖母は、絶対に彼のことを自分の娘には会わせようとはせずに、『戦争で死んだと思って再婚してるよ。目のまえにいるのが、あなたの息子だ』と、突っぱねたんです。そのときの記憶は、ぼくには全然ないですね。父親は責任を取ってぼくをアメリカに連れて帰ろうとしたらしいのですが、やがて諦めて納得して帰っていきました。
 どうにも周囲がおかしいなと思い始めたのは、やはり物心がついたあたりからですかね。まずもって、あっちこっち(産みの親と育ての親の元)を行き来するわけですから、『自分はいったい誰の子供なのか』と思うようになるわけです。小学校に上がると同級生たちから『アメリカー』と言われるようになって、面白くないから鎧を身に着けることを考え始めました。自分を守るには、自分の体を強くするしかないと思ったんです。
見かけがアメリカで、しかもやんちゃになっていくぼくに匙を投げようとしたのか、小学三年のときに担任の女の教師が、『おまえは外人だから帰りなさい』と、皆のまえで言いよるわけです。『外人の子供だから授業は受けさせない、消えろ』ってね。敵愾心を露にしてくるんです。周囲の大人たちからは『敵の子供とは遊ぶな』と言われたり。アメリカが憎いとかどうこうというよりも、見た目が外人(白人)であるというだけで、妬み辛み恨みが凄いんですよ。
 小学生の五~六年になる頃には喧嘩も強くなって、同級生からは馬鹿にされないようになりました。それよりもいちばんショックだったのは、おふくろが苛々しているときに『あんたは妹の子供だよ』と、いきなり事実を明かされたことですね。でもぼくは、おふくろもおばさんも赦すことができましたよ。たまたまこんな顔で生まれてきたけれど、育ててくれたんだし、産んでもくれたのだし。
 中学生で喧嘩が強いということになると、よその学校の不良とか、いわゆる組織の下っ端をやらされている先輩たちから、目を着けられるようになります。普天間というところはコザと那覇にはさまれた小さな場所で、両方からの攻撃にさらされるんです。こっちはそれを守るのに必死で、それで喧嘩ばかりの毎日になりました。ぼくは別にハーフだからグレたのではなくて、それは単なるきっかけで、馬鹿にされないように頑張っていたら、いつの間にかそういう流れのなかに入っていたんです。
 高校生のときはこの普天間で、喧嘩の相手として米兵を求めていましたね。自分の見た目がアメリカなのに、似たようなアメリカ人に喧嘩を吹っかけていたのは、やはり仲間から同じ沖縄人として認めてもらいたかったからでしょう。米兵からは恨みを買って、ビリヤードで遊んでいたところに、拳銃を手に仕返しをされに来たこともありましたよ。もちろんその逆に、仲良くなる米兵もいました。しかしベトナムに行ってそれっきり、というのが多かったですね。
 今でも、どの店に行っても言われますよ。『あんた、アメリカーね。どこなの?』ってね。自分からそうやって訛った言葉で訊いてきておいて、だったらこっちがアメリカ人じゃないことくらい判るだろ、と思います。沖縄にハーフがいることは知っているんだから、放っておいて欲しいのに、そうやっていちいち訊きよるんです。でもね、本当に憎んで『アメリカー』と言っているのでないことは、肌でわかります。別にぼく個人を馬鹿にしているわけではない。でも面白くはないですから、『そういう言い方はしないでくれ』とは言います。そうすると、向こうもわかってくれる。
 ハーフの多くは親を探したがるけれど、ぼくは残されているらしい父親の写真さえ、見ようと思わないですね。誰のせいにしても仕方がないし、懐かしく思って会いにいったところで英語ができないのだから、沖縄にいるしかないんです。このすずらん通りは、いまでは薄っぺらな通りになってしまいましたが、ぼくはここで生きていくつもりです。ここが自分の故郷だからです」


 その後比嘉さんは四十二歳のときに自営業を起こし、いわゆる稼業からは完全に足を洗った。そして彼のもとには、少年院を出た子供たちが、比嘉さんを慕って集まってくるようになった。仮出所をしたとはいっても、再就職先のほとんどない彼らに対して、比嘉さんは同情心と危機感を覚えた。自らも少年院を何度も体験しているだけに、彼は少年たちの焦りと投げやりな気持ちが手に取るようにわかった。
 しかし自分の事務所では子供たちを賄いきれないため、人材派遣業を始めることになった。知り合いの建築業者などから準備・後片づけなどの簡単な作業を請け負い、それを少年たちに斡旋した。仕事があるというだけで彼らは小さな自信を回復し、現場で色々なことを身に着けていった。この試みに保護司や地元工務店も協力し、免許などの資格を取得して独り立ちする子供たちもやがて現れた。
 不況の煽りで、残念なことにこの活動は現在では中断している。しかし比嘉さんのなかで、その志の火は消えてはいない。自分の人生の失敗と再生を糧に、出口のない子供たちをひとりでも多く救う試みを、できるだけ早く再開したいと彼は言う。
 

 比嘉稔さんが、太平洋戦争ならびに朝鮮戦争の落とし子であるとするなら、ベトナム戦争の際に沖縄に大挙してやって来た軍人・軍属との間に、生まれた子供もある。一九六五年にコザで生まれたマスミ・ロドリゲスさんも、そんな世代のハーフのひとりだ。同じハーフとはいっても世代や時代背景や性別でどのように異なるのか(もちろん個人ごとに異なるに決まっているのだが)、比嘉さんとはまた違う生き方を知りたいと思って、僕はある人物からマスミさんを紹介してもらった。
 現在彼女はバイリンガルのDJとして、主にラジオ局を舞台に様々な媒体で活躍している。コザの言葉と英語を陽気に使いまわす彼女は屈託のない明るい性格の持ち主で、多くのハーフの子供たちに勇気と希望を与えたとも言われている。本文中に登場する音楽家・故照屋林助の息子で、沖縄を代表するバンド「りんけんバンド」のリーダーを務める照屋林賢は、自身のサイトでこのようなことを書いている。
 「沖縄でハーフの存在感が出てきたのは、沖縄FMの音楽番組『ポップンロール・ステーション』からだと思う。番組のスタートは一九八六年、そのDJを務めたのは『ケンとマスミ』だ。あっという間に、ものすごい人気番組に成長した。英語と日本語と沖縄語をまぜたDJは、本当に面白かった。沖縄人とアメリカ人の良さが前面に出ていた。沖縄で(差別の対象になっていた)ハーフが市民権を得たのは、この番組以降なのだ」
 車両ナンバーがひと桁台の、古くて赤いビートルに乗って、彼女は約束の場所に現れた。ラジオで聴くのと同じ押し出しのよい声には、偏見を跳ね返してきた明るい強さが溢れていた。ときにはコザの言葉を交えながら、そして英語の表現を同時に使いこなして、彼女は子供の頃の話を語ってくれた。


  マスミ・ロドリゲスの場合

「後から知ったことなんですが、私の父はスウェーデン系のアメリカ人で、ベトナム戦争のときに十八歳で沖縄にやって来ました。カンザス出身の海兵隊員です。母は糸満出身で、当時Aサイン・バーで働いていたときに、父親と知り合ったそうです。でも私が三歳のときに父親がアメリカに帰国することになり、それからは母の手ひとつで育てられました。
 これは差別かなと思い始めたのは、小学一年のときでしたね。それまで友だちだと思っていた同級生たちが、お昼休みに一緒に遊んでくれなくなったんです。親しい子から聞いてみるとクラスにいじめのリーダーがいて、『マスミと遊ぶと自分も仲間はずれになるから』ということでした。なかには一緒に帰ってくれる子もいましたが、『内緒だよ』と言われましたね。
 そのときは哀しいとは思いませんでした。それよりもまず、意味がわからなかった。同じ人間なのにどうして? と思った。実を言うとこれは、大人たちが悪いんです。『あの子はアメリカ人だから一緒に遊んじゃいけない』とか、親がそういうことを子供に言っているんです。教師ですらそうでした。先生がクラスで私を指差しながら、『あなたたち外人がうちなぁんちゅを殺したんだ』と言うのです。子供ながらに、ひどく寂しい人だなと思ったことを覚えています。
 七歳のときに母親がメキシコ系のミリタリー・ポリスの男性と再婚して、私はロドリゲス姓を名乗ることになりました。本当の父親を知るまで、この人が自分の父だと思っていました。でもそれくらい彼は私を自然に受け容れてくれていて、いじめを避けるために、親の配慮で嘉手納基地にあるアメリカン・スクールヘ編入しました。それからはぴたりと、差別がなくなりました。クラスにはハーフの子もたくさんいるし、アメリカ人の子も分け隔てなく『Masumi, Come on Play!』と声をかけてくれました。
 しかし一歩でも外へ出ると、状況は一緒です。『アメリカーあっち行け!』と、男の子に石を投げられたり。でもやはりひどいのは大人で、同じクラスのハーフの子と一緒に歩いていたら、大人の男に自転車で追っかけられたことがありました。そこで私は彼女と手を取り合って、急に自転車のほうを振り向いて、向こうがやって来る勢いのまま突き飛ばしてやりました。それからは、町でその人に会っても向こうは知らんぷり。
 アメリカン・スクールは土曜日はお休みですから、のんびりとしてすごしていたら、家の近所にできたばかりの幼稚園の園長が出てきて、『あなたたちアメリカ人は勉強が少ないから、馬鹿になるんだよ』と、いきなり私に言うのです。そういった、大人の言葉がいちばん耳に残っていますね。『何で外人がゴーヤーが食べれる?』と、からかうように言われたり。田舎から来た何も知らない馬鹿な白人が沖縄でおかしなことをすることがあるから、見た目が似たような私たちハーフも、同じように思われてしまうんですね。
 でもそういうことには慣れているし、ミーはハーフでいじめられたけど、逆にそれがバネになったと思います。自分が何か悪いことをして、それで差別をされているのではないし、こちらには何の落ち度もないのだから、自分で強くなればいいんです。そこで学んでいったのは、『自分の気持ちに余裕がないと、人のことも助けられない』ということですね。自分のことをきちんとできないまま人を助けようとしたら、どっちも中途半端になって信頼関係が崩れてしまいます。ハーフだからと言われたくないですから、まずは自分を強くさせるしかありませんでした。
 しかし同じハーフでも、日本語の学校へ行った人には、また違った複雑な思いもあるんです。意外と最近のことなのですが、那覇の国際通りを歩いていたら、ハーフの男性に呼び止められたんです。
『おまえマスミだろ。おまえたちがラジオで英語とうちなぁぐちと日本語を喋るから、おれも英語が喋れると思われるんだ。同じハーフなのにどうしてくれる、この差別は何なんだ!』ってね。あまりの迫力に、あとで背中から刺されるかと思いました。そこで私は必死で彼を説得しました。『お兄さんも英語を自分で勉強するといいよ、ミーだってそうしたんだよ。何もしないで人のせいにしていては駄目だよ』って。本当にそのときは怖かったですね。
 わたしたちハーフの間ですら、そういった微妙なすれ違いがあるのですから、心ない言葉の多くは、やはり本人の理解が足りないところに原因があると思うんです。私は自分から反抗することはありませんが、言っていることの失礼さをわかってもらうために、ちゃんと主張をすることはあります。あなたは何気なく言っているのかもしれないけれど、逆に自分が言われたらどう思うの?って。(基地やアメリカと)関わりの薄い人ほど、偏見が強いですから。
 私はなぜマスミという名前なのだろうと思って、母に訊いたことがあります。そのときに本当の父を知ったのですが、彼のファースト・ネームのマイロンと、母の名前の澄子から両方を取って『マスミ』にしたのだと、母から教えてもらいました。そのときに、これでもう私は大丈夫だと思いました。自分が愛で生まれてきたことがわかったからです。
 私は十六歳から一人暮らしをして、バイトで生計を立てていました。母がロドリゲスさんと離婚をして、経済的に大変になっていたからです。それで学費も自分で払って、高校を出てからは大阪に就職しました。でも病気になってしまって、二十歳のときに沖縄へ戻って来たんです。そのときにふと、本当の父親に会いに行ってみようと思い立ちました。彼はミズーリ州にある大学で、生化学者になっていました。十七年ぶりなのに、しかも私にはほとんど記憶がないのに、目が合った瞬間にお互いが親子だとわかりましたね。
 二十一歳のときにFM沖縄が開局して、私はフリーランスのDJとして番組を持たせてもらうことになりました。それが『ポップンロール・ステーション』です。ハーフの子たちに何をしてあげられたのかは、自分ではわかりません。でも番組宛にハーフの子から手紙をたくさんもらって、励まし続けたのは確かです」


 現在のマスミ・ロドリゲスさんはフリーのDJおよびアナウンサーとして、様々なイベントに登場している。ROK(ラジオ沖縄)では、「土曜の夜はスケールアウト」という帯番組を持ち(2230分から2330分、もうひとりのパーソナリティはキャノン松谷)、これもまた人気を博している。元気いっぱいの明るいトークで、彼女がずっとひとりで笑い続けているような場面もある。
 彼女の英語は自然に覚えたものというよりは、強く生き抜いていくために、そのつど自前で鍛錬してきたものだという印象を、僕は個人的に強く受けた。十六歳での自立にしろ、そしてDJなどをして貯めたお金で基地内の大学(メリーランド大学の海外分校)に通ったことにしろ、彼女の人生は何者にも頼らない「セルフ・メイド」そのものだった。
 差別や偏見に対して怯むことなく、かといって反抗をするのでもなく、むしろそれを土台として彼女は自分をつくってきた。人の言うことに左右されていたら、それに巻きこまれてしまうから、自分に誇りを持って人に決められない人生を歩んできたのだと、彼女は快活に言って笑った。


 比嘉さんとマスミさんのふたりに限らず、多くのハーフたちが受けてきた差別や偏見は、本人にしてみればまったく謂れのないものだ。そこに基地があり、自然と人的交流が生まれ、やがて愛が育まれて彼らはこの世に命を受けた。誰を脅かすのでもない、穢れを知らない子供でしかなかった。
 しかし謂れのない偏見や憎しみの背景には、むしろハーフの子供ひとりになどとても仮託できないほどの、重く息苦しい現実があった。いつまでも動くことのない基地、土地を強制的に接収されたままの地主たち、戦争において米兵に焼き殺された親族を持つ遺族たち。そのような過去や進行形の現実を、頭を切り替えて受け止められる者もいたし、立場や心情ゆえにそれが不可能である人たちもいた。マスミ・ロドリゲスさんがインタビュー中で語っているように、沖縄の地で問題を引き起こす若い米兵たちは現在も引きも切らない。
 そのような有形無形の犠牲や害を被っている多くの人たちにとって、僕が本文中に書いてきた数々のエピソードは、例外的な夢物語にしか映らないかもしれない。「過去の微笑ましい物語や場面だけを恣意的に摘出して、大きな現実から目を背けているのではないか」と。
 しかし本書で再現された物語はすべて実在したことであり、今もなお健在の人たちの生の声から紡ぎ出されたものだ。彼や彼女たちがアメリカを相手に生きた過去を知るにつれて、なぜこのような物語がかくも多く眠ったままでいるのかと、少なくとも日本人である僕は実感するよりなかった。互いが手を取り合って、小さな夢を描いてみようとした過去も、そこには少なからずあったのだ。
 この文章の冒頭で少しだけ触れているように、取材を重ねながらそれを言葉へと置き換えてゆくうちに、僕は自分の居場所のようなものを何度も失いかけた。いったい誰のために何を書いているのか、一枚のアップルパイから始まってしまった生の物語の動きのなかで、僕は自分を固定するべき位置が見定められなくなっていった。アメリカに従属している日本の自分が、その日本とアメリカの双方からさらに二重に従属を強いられている沖縄について何かを書くとは、あるいはそういうことなのかもしれない。
 ここで少しだけ個人的なことを書かせてもらうなら、僕はアメリカの基地がある街で生まれ育った。東京都町田市、すぐそばには沖縄の58号線と同じ「軍用道路」としての機能を持つ国道16号線が走り、その沿線にはキャンプ座間を中心に相模ハウジングエリアなどが並び、後方には厚木飛行場が控えている。今では軍人・軍属の姿を街で見かけることはほとんどないが、僕が子供の頃には週末やペイデイともなると、町田の繁華街にはアメリカ人たちの姿が溢れ返っていた。高校生になると開放日のキャンプ座間で、なぜかハンバーガーのパテを焼いていたという記憶がある。おそらく同級生に勧められて、遊び気分で手伝いに入ったのだろう。
 横田基地から発せられているFENの電波を聴いて育ち、16号線沿いにわずかに残っていた軍人・軍属向けのレストランやイタリアンの店、ハンバーガー・ショップなどにも何度か通った。だからだろうか、規模がまるで違うので比較にもならないのだが、沖縄に行って58号線を車で走り、初めて基地のフェンスを目にしたときには、懐かしささえ感じたほどだった。


 いまにして思えば、一枚のパイから始まってずいぶんと遠大な旅をしたものだと思う。羽田と那覇の航行時間は約二時間半、取材のほとんどを基地のある沖縄本島でおこなったため、実際の移動距離はさほどのものではない。飛行機に乗って那覇に着いたら、あとは車に乗って小さな島をちょこちょこと動いていただけである。
 しかしその水平的な移動とは別に、一九四五年四月の米軍の沖縄上陸にまでいちど視線を深く潜らせ、復帰前後までの約三十年間を何度も往復した垂直的な時空の距離の移動は、我ながら大作の映画でも見るかのような想いだった。自宅のある横浜と沖縄を横に移動して、そして四五年から七二年までを縦に移動して、何度も頭が混乱しかかった自分を自嘲的に思い出す。 そのような旅を描くことを支えてくれ、貴重な肉声を届けてくれた沖縄の人々に、心からの謝辞を送らなければならない。彼らの理解と温かい気持ち、そして勇気と協力なくしては、「アメリカのパイを買って帰ろう」という本は一ページすら進めることができなかった。

 自宅のある横浜市の郊外では、今日も演習の戦闘機と軍用ヘリが飛び交っている。規模こそ違うが、窓からふと空を見上げたときに目に入った三角形の戦闘機は、嘉手納で見たのと同じ形をしているなと思った。



二〇一〇年 某日

駒沢敏器






駒沢敏器・著
『アメリカのパイを買って帰ろう』
(日本経済新聞出版社)